
ORIGIN
テンヨーの創始者、山田昭は、世界にまだないものを生み出すことに、誰よりも熱を燃やした人でした。自分が面白いと思ったものを「どうだ、これ面白いだろ?」と嬉しそうに自慢し、同時に、とてもとても厳しい目で、面白いかどうかを見極める人でした。
山田のことを直接語れる社員は、年々少なくなっています。そこで、当時を知る方々にも集まってもらい、その教えを、受け継げるかたちに書き出しました。私たちが今日の仕事でそのまま使える、7つのDNAです。
自分が面白いと思ったものは、日本中が面白いと思うはず
1950年代の日本で、手品の道具といえば、街頭のテキ屋が売るものと思われていました。山田昭は手品の面白さを信じて、一般の人に対しても広げていきたいと思いました。東京・新富町の小さな研究所で道具をつくり、百貨店の売り場まで開拓していきました。専門家だけのものだったマジックを、誰もが買える「商品」にしたところから、テンヨーは始まりました。
世界を旅する中でジグソーパズルに出会います。自分で買って、自分で組んで、こんなに面白いものがあるのかと確信します。当時の日本には、ジグソーパズルという言葉も広く知られていませんでした。それでも迷いませんでした。
こんなに面白い遊びをすべての世代に届けたいと考えた山田昭は、こどもジグソーパズルを発売しました。それがきっかけとなり、ジグソーパズルが全世代の遊びとして広がっていきます。水に卵を入れると生きものが生まれる「シーモンキー」も、1963年から今も棚に並ぶ「プラパズル」も、市場調査からではなく、山田昭自身の「面白い!」から始まっています。
ただし、面白さの確信は入口にすぎません。誰も知らなかった遊びを日本の文化に根づかせるまで、山田昭は面白さの追求、品質の追求、届け方の追求を、これでもかと重ねていきます。ここから先は、その徹底ぶりの話です。

本物を知れ
1980年代、海外旅行がまだ特別で高額だった時代に、山田昭は5年に一度、社員全員を海外へ連れて行きました。目的は慰安ではなく「勉強」です。だから宴会は一切なし。バス以外の行動は、自分で調べ、自分で払い、自分の足で勉強することが課されました。
1985年、株式会社テンヨー設立25周年の記念旅行の行き先は、カナダでした。ここには、はっきりした理由があります。自社のジグソーパズルの絵柄になっていた、絶景の“ペイトー湖”があるからです。印刷であの色彩を表現するためには、実物の色を見て知っていることが必要になる。だから社員全員に本物の絶景の湖を目に焼き付けさせようとしました。ひとつのジグソーパズルの絵柄のために、印刷会社の担当者まで連れて、カナダへ行ってしまう人でした。
移動の長距離バスでも、うっかり寝てなどいられません。外の景色を目に焼き付けておけ、というわけです。そして何より、本人が手品を好きでたまらない人でした。引退後まで含めて、3年に一度のマジックの世界大会・FISMに通い続け、約1週間、朝から晩まで、すべての演技を客席で楽しんでいました。
本物を見た者にしか、本物の驚きはつくれない。


楽しさを、全員に味わっていただく
ジグソーパズルを組み上げていって、最後のピースが1つだけ見つからない…。でも、テンヨーのサービスセンターに連絡すれば、その1ピースが無料で届きます。1974年に日本で初めて行われた「ピース保証」サービスです。ピースが見つからない理由はさまざまですが、完成しなければ本当の面白さは味わえません。だから山田昭は、お客様が誤って無くしたピースも、全て保証すると決めました。
でも、保証しているのは、単なる部品ではありません。
最後の1ピースをはめて完成する、あの感動、達成感は、絶対に同じように味わっていただきたい。だから最後までぜひ成し遂げてもらいたい。心からジグソーパズルの楽しさをお届けしたい、その一心だったと思うんです。
——当時のジグソーパズル開発デザイナー
最後の1ピースが欠けたまま終わったら、遊んだ人はジグソーパズルを楽しくないものと思ってしまうかもしれない。自分が味わってきた、最後の1ピースがはまる瞬間の感動を、買ってくれたお客様全員にお届けしたい。保証は、その決意のかたちです。
品質の磨き込みも徹底していました。ピース1つ1つの形を自社で設計し、ピースが正しい場所にハマっていることを心地よく指先に伝えるフィット感。新作のジグソーパズルは、発売前に山田家で必ず組まれ、つねにチェックが行われていました。多くを組んだのは夫人です。そしてチェック結果の5段階の評価レポートがジグソーパズルの開発現場に届く。そのほとんどがAでした。だからこそ、Bがひとつでも付くと、現場ではたいへんな騒ぎとなったのです。
このピース保証サービスのために、テンヨーはいまも社屋のワンフロアを割いています。フロアには、発売中のすべてのパズルが製造ロットごとに保管されています。


嗅覚を鍛えろ
既に出荷してしまった製品に、表記ミスが見つかったときのことです。担当者は、いつもどおりに仕事をしていて、手順にエラーはありませんでした。それでも山田昭は許しません。こういうこともあるかもしれない、ああいうこともあるかもしれない、と先の先まで想像しておくこと。そのときに語られた言葉が「嗅覚を鍛えろ」でした。マニュアルの外にあるリスクを嗅ぎ取る力を持て、と強く語りました。
本人は、あらゆる事態を事前に想定し尽くしている。だから実際にトラブルが起きても、たいていは想定の範囲内に収まり、交通事故さえも「命があってラッキーだった」と言ってしまう人だった、とOBたちは口を揃えます。一方で、ギャンブルや株のような、自分の力が介入できない勝負には一切手を出しませんでした。楽観は性格ではなく、想定し尽くした準備の成果です。

徹底的に準備しろ。挑戦の結果は恐れるな
準備が浅い、調べていない、考え抜いていない——結果が出る前の手抜きは、驚くほど叱られる。ところが、やってみなければわからなかった挑戦の結果は、どんな結果でも一切責められません。「よくやった」としか言われないのです。
考え抜くところまでが、自分の仕事。やってみた先は、誰にもわかりません。だから準備だけを厳しく問い、挑んだ結果は讃える。社員が思い切って挑戦できたのは、この順序があったからでした。怒られたというより、叱られた。後々になってから感謝することもしょっちゅうだった、とOBたちは笑います。

人を見る
平成に入ったばかりのころの話です。たまに号令がかかり営業・開発の全員が集められ、山田昭の檄がとびます。
テンヨーの商品を「買ってもらう商品ではなく、買いたいと思う商品を作るんだ!」。その言葉は、自分たちは絶対的に面白い、素晴らしいものを世の中に届けるんだ、という社員全員へ向けての強烈なメッセージでした。訓示の最中、山田昭は突然、いちばん後ろで目立たないようにしていた当時新人だった開発部スタッフに目を向けて言いました。
「いいか、世界に通用するモノを作れ!」
——山田昭(全社員への訓示の最中、末席の新人スタッフへ)
いちばんの新入りに、山田昭から放たれた気迫の言葉。全身がしびれる思いだったと本人は振り返ります。あの一言は確信になり、何十年経ったいまも推進力であり続けている、と。
売り場でも同じでした。百貨店の売り場にふらりと現れてはディスプレイを褒め、後ろからすっと肩を揉んで「頑張ってるね」と声をかける。若い頃に自分も百貨店の売り場に立った人だから、売ることの大変さを知り抜いたうえで、現場の一人ひとりを見ていました。
つくり手への尊重は、商品にも刻まれています。1973年から、テンヨーの手品には、つくり手であるクリエイターの名前が載っています。「名前を出したら、引き抜かれてしまうじゃないか」と、よその経営者は驚きました。それでも名前を載せたのは、つくり手を尊重する人だったからです。尊重された人たちが育っていったのは、その結果でした。


任せた人を、信じ切れ
あれほどの情熱家が、65歳で、きっぱりと引退しました。きっかけは、ある大企業のオーナー経営者が、晩年も第一線を手放せずにいる姿を見たことです。「老害」という言葉の重さを受け止め、社員の前で「自分は65歳で引き下がる」と宣言しました。あんな情熱家が辞められるわけがない、と陰で囁かれていましたが、1996年、宣言どおりに退きました。
あとは潰れたって構わない、とまで言い切って。投げ出したのではありません。育ててきた人たちに任せると決めて、決めたからには口を出さずに信じ切る。潔い引き際は、その信頼のかたちだった、とOBたちは振り返ります。あの完璧主義者が最後にいちばん大きく信じたのは、社員たちでした。
引退しても、FISMに通い、年末の新製品会議に顔を出し、新作のジグソーパズルを組み続けました。手放したのは役職で、驚きへの好奇心は、最後まで手放しませんでした。

おわりに
どの教えも、山田昭ひとりの伝説ではありません。私たちが今日の仕事で、そのまま使えるテンヨーのDNAです。
「どうだ、これ面白いだろ?」
私たちも自信を持ってそう言えるように、今日も驚きをつくっています。
